立山ガイド『中語』と芦峅寺ガイド 立山ガイド協会の設立100周年の記念式典に参加して

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立山ガイド 『中語』 と芦峅寺ガイド

(立山ガイド協会の設立100周年の記念式典に参加して)

日本登山史に名を連ねた芦峅寺(あしくらじ)ガイドの起源は、立山登拝登山の案内人であった中語(ちゅうご)に始まる。
中語は江戸時代の後半から始まり、宿坊の衆徒(僧侶)に代わって、神仏の心を立山登拝者に伝え、登拝者の願いを神仏に伝える役目であった。

芦峅寺の集落の山案内人は、登山の脇役として日本の登山史に燦然と輝いている。
山案内人は狩猟の経験によって、雪山の登下降のスキルや生活技術、雪崩の予知などを体得していた。
また芦峅寺の集落の人たちの遭難には、村中が総動員体制で捜索するしきたりがあった。こうした絆を保ち続けた歴史が、この集落の人々の結束を育んできたに違いない。
そして登山者である、お客様を大切にする習性は、長い歴史のなかで集落の人々の血肉に深くしみ込んできたものである。
100年以上もの長い間、立山・剣岳方面の登山にかかわってきた、集落の歴史はまことに興味深いものがある。

芦峅寺ガイドには、いつの時代にも圧倒的に佐伯姓が多い。その中で近代登山案内の原型を築き上げた一人として佐伯平蔵がいた。芦峅寺ガイドの草分けの系統である平蔵は日本山岳会・近藤茂吉を長次郎谷から剣岳へと案内し、別山尾根を初めて下降した。
近藤は尾根から剣沢へ落ち込む谷を平蔵谷と名付けた。宇治長次郎が初めて下降した谷であるにも関わらずである。
※※長次郎はすでに長次郎谷と称して、剣岳に名を留めていたからである。
※※平蔵は立山中語人夫同盟を、近代登山の案内に即応した立山案内人組合に改組し、
※※初代組合長になって案内人の資質の向上を図った。

一方、大山地域の宇治長次郎は、『点の記』にあるように明治39年、陸軍陸地測量部の柴崎測量隊を案内し、測量登山としての初登頂を果たしている。頂上に錫杖を見つけてのサプライズはあまりにも有名である。
平蔵と長次郎は無二の親友だったそうである。また、平蔵谷と長次郎谷を分けている源次郎尾根に名を留めた、源次郎も忘れてはならない。源次郎もまた芦峅寺の中語であった。
源次郎は山案内人よりもむしろ、大正11年、剣沢小屋新設の責任者として実績を残している。
三者がそれぞれ剣岳の頂上を目指す、谷と尾根にその名を留めているのもまことに興味深い。
現早月小屋を新設した佐伯伝蔵ほか、立山黒部方面のほとんどの山小屋に芦峅寺の人々が関係している。
また芦峅寺のガイドたちは南極、ヨーロッパアルプス、ヒマラヤへとその活動のエリアを積極的に広めつつ、遭難事故の対応や救助活動を担ってきた。昭和38年のいわゆる「さんぱち豪雪」の時の愛知大生、薬師岳遭難の際にも大活躍をした。のちに富山県登山届出条例が制定され、積雪期の剣岳方面の登山は厳しく制限されるようになった。

今回、立山ガイド協会の設立100周年の記念式典に際して、佐伯高雄会長は「かねて山岳信仰や立山曼荼羅、歴史を学びたいという登山者側の希望を聞いていた」とし、「来年以降、まずは一部のガイドに専門性の高い『中語』を担ってもらい、芦峅寺を拠点に活動できるようにしたい」と意欲を語った。

日本山岳救助機構合同会社 業務執行社員 中嶋 正治 記

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