日本の国立公園の山の魅力|甲斐駒ケ岳

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甲斐駒ヶ岳のあれこれ

筆者の生まれた八ヶ岳山麓からは八ヶ岳の連なる峰々が圧倒的なボリュームで迫ってくるが、目を南に転じるとそれに負けず劣らず存在感を示しているのがピラミッド形状をした甲斐駒ヶ岳の姿である。伊那谷では花崗岩のその白さから白崩山と呼んでいたようであるが、幼いころには夏でも雪渓が残っていると勘違いするほどであった。その甲斐駒ヶ岳についてのあれこれを書いてみたい。

🔷日本百名山での最大級の賛辞

深田久弥は甲斐駒ヶ岳の項で「日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ケ岳をあげよう」「日本アルプスで一番奇麗な頂上は、ときかれても、やはり私は甲斐駒ケ岳をあげよう」。と最大級の賛辞を贈っている。そして「甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう」と書いた。ベタ褒めである。日本百名山ではこのほかの山についてもいろいろなコメントを述べているがここまで持ち上げたものを筆者はあまり知らない。

🔷西駒ケ岳・東駒ケ岳について

伊那地方では、中央アルプスの木曾駒ケ岳を西駒ヶ岳、東側に聳える甲斐駒ヶ岳を東駒ヶ岳と呼んでいる。2009年の友人たちとの山行の折、南アルプススーパー林道の起点・戸台バス停の登山案内図や登山届のルート図は、「東駒ヶ岳」と書かれており、登山者のなかには戸惑う人もいたのがとても印象的だった。が、木曾駒ケ岳についても現在でも地元の集団登山に使用するしおりの類も「西駒ルート・マップ」(伊那谷学舎刊)となっている。“いまだもって西駒ケ岳、東駒ケ岳と呼んでいるのは地元民の頑迷からくるのでは”と感ずる方もいるだろうが、長野県人としてはごく自然に東の山、西の山と呼んでいたのを登山家と称する人たちが後から木曾駒ケ岳、甲斐駒ヶ岳などと言い始めたのではないかと擁護してみたくなる。そこで、手元にある何冊かの古い山岳案内書のなかから、「甲斐駒ヶ岳」という名称がいつ頃から使われたのかを調べてみると、一部例外的に甲斐駒ヶ岳の名称を使用したものはあるものの、昭和12年に名古屋鉄道局が作成した「南アルプス登山案内」が文中も含めて「甲斐駒ヶ岳」の表現を使用している最初である。しかし、これ以降の書物でも駒ケ岳の名称を使用しているので、甲斐駒ヶ岳の名称が定着したのは登山ブームの到来に伴い各地の駒ケ岳を区別する必要性が生じた昭和30年代以降のことではないだろうか。
なお、これらの二座はいずれも一等三角点とされ、その基準点名は甲斐駒ヶ岳が「甲駒ケ岳」、木曾駒ケ岳が「信駒ケ岳」となっているが、これも中央的な視点であったのであろうか。

🔷甲斐駒ヶ岳の古称と開山

伊那谷ではこの山の別称として白崩山と呼んでいたことは、江戸時代の文化年間に成立した「伊那志略」にも見られる。真っ白な花崗岩がその由来と思われるが、一等三角点の本点の山頂からの眺めはさすがである。一方、山梨側では「三季物語」という書物に天正年間、織田信長が甲州征伐をした折、「信州駒嶽」と言ったことが記述されている。上記の「伊那志略」でも「白崩嶽 在黒河内甲信の境也、甲斐称駒嶽是也」とあって、駒嶽と呼ばれていることが分かる。開山は江戸時代末期の文化時代で、信州諏訪の小尾権三郎(延命行者)入山禁止の甲斐駒ケ岳の黒戸尾根に登路を開いたとされる。これについては新田次郎が『駒ケ岳開山』を記している。

🔷登山ルートの変遷

1979年のスーパー林道の全面開通により、甲斐駒ヶ岳の登山ルートは北沢峠を起点とするものが最も利用されている。この山の開山された江戸時代は黒戸尾根ルートだけだったが、その後どのようなルートが開かれたのであろうか。
昭和15年発行の『白峰・仙丈・駒・鳳凰』朋文堂刊では次の5つのルートが紹介されている。

① 戸尾根コース
② 尾白川遡行コース~5合目小屋~黒戸尾根
③ 大武川遡行コース~仙水峠
④ 戸台川~六合目石室
⑤ 戸台~戸台川~北沢峠~仙水峠

すこし遡るが、昭和4年刊行の『日本南アルプスと自然界』では日向八丁尾根ルートが紹介されている。昭和15年2月には松濤明が『風雪のビヴァーク』に書かれているように甲斐駒ヶ岳からの下山路としており、かなりよく利用されていたと思われる。また、黒戸尾根を歩いていていつも不思議だったのは5合目小屋の存在であったが、尾白川ルートから登りついた場所だったことで合点がいった。今ではほとんど歩く人もないと思われるが、筆者の最初の南アルプス合宿は仙丈岳から塩見岳の縦走で、戸台河原を延々と歩いた苦しさは40年以上たった今でも思い出す。

🔷書物に紹介された甲斐駒ヶ岳

特異な風貌を持つ甲斐駒ヶ岳は古くから多くの人に名山とたたえられ様々な書物で紹介されているのでそのいくつかを紹介したい。

① 海量(江戸時代の僧侶)「甲峡に連綿として丘壑(きゅうがく)重なる 雲間に独り秀づ鉄驪
**(てつり)の峰」
② 小島烏水(登山家、随筆家)「日野春から以北、上諏訪に至るまでは、全日本國で最も適當な
大山岳の觀望臺で、應接に遑(いとま)がないほどである、殊に日野春から小淵澤までの間では、
大高原を次第に登りとなって、花崗岩の大王、甲斐駒ヶ岳は、鐘状をなした鞍掛山から、屏風岩
狀をなせる八丁尾根の絶壁となり、烏帽子岳の竣峰に繋がって、頂上の一角、摩利支天の兀々
(こつこつ)として寸草をも生ぜぬ肉塊隆々として、爛砂と白雪が反省している。」
③ 宇野浩二(大正昭和期の作家)『山恋ひ』の一節で「駒ケ岳は恰も舞台の團十郎のやうに見え
た。外の諸々の山は悉く彼の影に消されて、ひとり彼だけが、駒ケ岳だけが観客の目を引付ける
のであらうか。」と記述している。

🔷学校集団登山のこと
長野県に限らず山に囲まれた地域においては学校集団登山が行われている。甲斐駒ヶ岳は山梨県北杜市と長野県伊那市に境界を接しているが、この両市と隣接の南アルプス市に聞き取りしたところ、残念ながら登山を行っている学校は皆無であった。その理由で最も大きいのは甲斐駒ヶ岳のアクセスの悪さや難しさがあげられるようだ。そのため、仙丈岳、八ヶ岳、北岳、鳳凰三山等の山が選ばれているが、日本第二の高峰の北岳に集団登山している中学校にアッパレをあげたい。

日本山岳救助機構合同会社
社員 小林明仁

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