オサムの“遭難に遭う前に、そして遭ったら”|山での失敗は成功体験ではない

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年末年始の八ヶ岳は無法地帯?

今年の正月、赤岳鉱泉・行者小屋がホームページやSNSにアップした、「年末年始の南八ヶ岳は大荒れ模様です」という投稿が、ちょっとした話題になった。
その内容は、非常識な登山者や、冬の八ヶ岳を甘く見ている登山者らに苦言を呈するもので、矛先はアプローチの林道を上がりきれずに待避所に車を放置する者、秋山感覚程度の防寒対策で赤岳鉱泉までやってくる者、自分の技量に見合わない氷瀑を登ろうとするアイスクライマーなどに向けられていた。

そういえば数年前にインタビューした登山用具店のスタッフは、「夏山の経験もない若者が、冬の赤岳に登ろうとして用具を買いにきた」と言っていた。「購入して一度も箱から出したことのないアイゼンを、箱ごと雪山に持ってきた登山者がいた」という話も、かなり昔に聞いたことがある。冬山のリスクに対する認識が不足している登山者の存在は、今に始まったことではない。

先の投稿には、「もう驚きを通り越して啞然としてしまう混沌とした日常が年末年始の南八ヶ岳では繰り広げられています」「こんなに秩序が乱れている無法地帯な年末年始は初めてです」「こんなことが続いていたら、重大な事故や遭難がいつ起きてもおかしくない」という危機感が綴られている。

遭難体験を事故防止のための教訓に

さて、この投稿で槍玉に挙げられていた人のなかには、「厳冬期の赤岳をヘルメット無し、ピッケル無し、アイゼン無し、トレランシューズのみで登って武勇伝みたいに語っている方」というのがあった。これを読んで思い出したのが、過去に取材させていただいた何人かの遭難者である。

ライターとしての私は、山で遭難した人に会って体験談を聞き、それを検証して文章にすることを主な仕事としている。親しい友人らからは「人の不幸で飯を食っている」などと揶揄されることもあるが、あながち的外れではないかなとも思う。

ただ、山岳遭難事故は年間2000件以上発生しているが、自身の体験を語ってくれる遭難者を探し出すのはなかなか骨が折れる。「自分の体験を知ってもらうことが、事故防止の役に立つなら」ということで、自ら協力を申し出てくれる方もいるが、そうそうあることではない。

遭難事故というのは、ある意味、失敗体験であり、それを人に知られたくないと思うのは当然で、誰だって「そっとしておいてほしい」というのが本音だろう。
だから、「遭難体験を聞かせてください」という、こちらの身勝手なお願いを聞き入れてくれる方には感謝しかない。と同時に、こちらには「思い出したくないであろう体験を、無理矢理話させてしまって申し訳ない」といううしろめたさがある。

正直いえば、昔は「あなたの体験は大変貴重であり、ほかの登山者にとって教訓となるものだから、是非とも語るべきだ」と思っていたこともあったが、いくつかの失敗を経て、それは傲慢でしかないことに気付かされた。今は、とにかく語ってくれることをありがたいと思い、できるだけ当事者の気持ちになって話を聞くようにしているつもりだ。

話を聞きながら、ときに「そこでどうしてそう判断してしまったのか」と感じたりもするが、人のことはとやかく言えない。自分も登山を趣味としてきているから、小さなヒヤリハットの経験はたくさんあるし、今思い返しても「命拾いしたな」と思うことも幾度かあった。もし自分が当事者と同じような状況に陥ったときに、適切な判断を下せるという自信はなく、もっととんでもない、最悪の選択をしてしまうことだってありえると思っている。

遭難体験やヒヤリハットは武勇伝にはなり得ない

しかし、インタビュー中に「ん? その感覚はちょっと違うのでは」と違和感をいだくことが、これまでに何度かあった。
たとえば、「今までにもあちこちの山で道に迷い、何度もビバークをしているから、不安はなかった」という言葉を聞いたとき。吹き飛ばされそうな風と土砂降りの雨のなか、登山を開始した彼は、目的地を目指す途中で道に迷い、ビバークするハメに陥ってしまった。そのときを振り返って言ったのが、この言葉だった。

彼はまた、「これぐらいの悪天候下で行動したことは、それまでにも何度もあった」とも言っていた。結局、この男性は行きつ戻りつしながら山中を彷徨い、8日目にようやく発見・救助されたのだった。
彼は以前にも道に迷って遭難しかけたことがあり、そのときはどうにか自力で脱出することができたという。私が違和感を感じたのは、何度も道に迷ってビバークをしたり、悪天候下で登山を強行したりしたことを、あたかも成功体験のように語っていたことだ。その語り口には、ちょっと得意げなニュアンスが感じられた。そう、厳冬期の八ヶ岳での無謀登山を、まるで武勇伝のごとく語るかのように。

遭難を成功体験と勘違いする人たち

遭難を体験した人のなかには、ごく稀にこのような思考回路に陥る人がいるようだ。計画や準備が不充分で道に迷って遭難した別の人は、山中で何日間もサバイバル生活を送りながら生還できたのは、自分の判断や行動が適切だったからだと思っている節がうかがえた。
やはり道に迷って遭難したある人は、いつも地図とコンパスを持たないことを潔いとさえ思っているようだった。彼に「なぜ携行しないのか」と尋ねると、「使い方がわからないから」と悪びれることなく答えた。

恐ろしいなと思うのは、ひとつ間違えれば命を落としていたかもしれない状況だったのに、それを切り抜けたことを成功体験と勘違いし、自分の力量や経験を超過大評価してしまっていることだ。
だが、今までどうにか無事ですんでいるのは、ただ運がよかったからに過ぎない。何度も道に迷ったりビバークに追い込まれたりするのは、失敗からなにも学ばずに同じ過ちを繰り返しているからで、リスクマネジメント能力はないに等しいといっていい。

畏敬の念を持ち、謙虚に向き合う

前回のコラムに、「山では死なない程度に痛い目に遭うことが、登山者を成長させることにつながる」と書いたが、それは同じ失敗を繰り返さないための教訓として生かすことができてこその話である。失敗から教訓を得ようとせずに、成功体験だと錯覚して逆に警戒心が低下してしまう人は、なにか大きな思い違いをしていると思う。それに気づかないかぎり、また同じミスをおかすだろうし、そのときにまた運に恵まれる保証はない。

これも再三言っていることだが、山で遭難しないようにするためには、山に対して畏怖の念を持つこと、そして自分に対しても自然に対しても謙虚に向き合うことが、求められるのではないだろうか。

冒頭で引用した赤岳鉱泉・行者小屋の投稿も、最後をこう結んでいる。

「常に思慮深く冷静に謙虚に冬山をなめないでいただきたいです」

羽根田 治(はねだ おさむ)

1961年埼玉県生まれ。那須塩原市在住。フリーライター、長野県山岳遭難防止アドバイザー、日本山岳会会員。山岳遭難や登山技術の記事を山岳雑誌などで発表する一方、自然、沖縄、人物などをテーマに執筆活動を続ける。『ドキュメント 生還』『人を襲うクマ』『山岳遭難の傷痕』(以上、山と渓谷社)など著書多数。近著に『山はおそろしい 』(幻冬舎新書)、『山のリスクとどう向き合うか』(平凡社新書)がある。

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